竜角寺古墳群=ハシビロカモ、ルリビタキ、ジョウビタキ [夢見る鳥たち]
101号古墳:水鳥埴輪(11 12 10)千葉県印旛郡栄町
5世紀に始まり中心は6世紀から7世紀の古墳終末期にかけて下総国、印旛沼を見下ろす北総台地にこの地方の豪族たちの墓が造られました。房総風土記の丘、竜角寺古墳群です。2キロ弱の道筋に前方後円墳37基、円墳71基、方墳6基の墳墓が集中し、中でも岩屋古墳は方墳では日本最大級の規模で一辺が80mもあり三段に構築されています。
当時この地方は印波国造が支配していたとされています。多分、利根川や印旛沼の水利が豊かな農作物を約束してくれた豊穣な地だったのでしょう。
その古墳群の中で101号古墳は印旛沼を臨む台地の先端部に造られ1984-86年に保存整備の目的で発掘調査が行われ、造られた当時の姿に1991年に復元整備されました。調査の結果、6世紀前半二重に周溝を巡らした円墳で、頭頂部と墳丘裾部には円筒埴輪や朝顔形埴輪が並び周溝の中間にある土手とその一部張り出し部に家型埴輪、馬、鹿、犬、猪、水鳥の動物埴輪、男性兵士、女性埴輪などの形象埴輪がレプリカを作って復元され、造陵当初の豪華な円墳の姿を再現しています。
水鳥の埴輪は2基並べられ存在感があることから重要な食料だったので墓前の供えたのでしょう。実際に出土した埴輪は資料館に収蔵・展示されています。
古墳時代が終りを告げるとこの地の豪族たちは仏教寺院の設立へと移っていきます。その寺院がこの古墳群の名前にもなった竜角寺(670前後)、房総最古の寺院です。天平13年(741)、聖武天皇の国分寺建立の詔勅に先立つこと70年くらい前に創建され、関東では深大寺の釈迦如来と同じ白鳳時代の薬師如来像が本尊として信仰を集めました。
近くにはその寺院の瓦を焼いた瓦窯跡があり、この古墳群の埴輪もこの窯で焼いたのではと考えるのは無理でしょうか。その竜角寺は元禄年間の火災で薬師如来像の胸部を失い、現在の白鳳佛の像は補修され頚部より上が創建時の奈良時代前記の作とされています。
これからの季節、101号復元古墳の周辺は松の疎林に囲まれ静かな雰囲気の中でジョウビタキ、ルリビタキ、トラツグミなどの冬鳥も多く、古墳から下ると坂田ヶ池がありカモ類や猛禽類が観察できる絶好なポイントとなっています。
【資料:史料が語る千葉の歴史 千葉県高等学校教育会 三省堂】
左:ルリビタキ♂ 右:ジョウビタキ♂(10 03 05)千葉県印旛郡栄町 中段:ハシビロカモ
出雲の神話=ツバキ [花のある情景]
ツバキ(11 11 18)松江市佐草町 八重垣神社
古事記上つ巻:八百万の神に高天原を追われた須佐之男命(スサノオノミコト)は出雲国の肥の河(斐伊川)に降り立ち、その河を遡ると老夫婦が若き娘を間において泣いていたので尋ねると「八人の娘がいたのですが、高志(コシ)の八俣の大蛇が毎年やってきて娘たちは食べられ、最後の娘、櫛名田比売(クシナダヒメ)の番がきた」ことを答えます。
須佐之男命はその大蛇の姿を尋ねると「身は一つだが頭と尾が八つあり、全身には日陰蔓や杉、檜が生え、身の長さは谷と山八つにわたっている」と言うのです。
命(ミコト)は「汝の娘を私に献上するか」と尋ねると老人は命の出自を聞き「喜んで娘を差し上げましょう」と答えます。命は老人に強い酒を八つの樽にいれて大蛇の出るところへ仕掛けるよう指示します。
やがてやって来た八俣の大蛇はその酒を飲んで酔って寝てしまいます。
命は素早く腰に帯びていた「十拳(トツカ)の剣」で八俣の大蛇を斬るのですがその尾から太刀が出たので、その太刀を天照大神に献上しますが、後にこの太刀を「草薙剣」と呼び天皇家が引き継ぐ三種の神器の一つとなるのです。
英雄となった須佐之男命は出雲の地に宮を作ると、その地から雲が立ち昇ったので「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」と歌い、櫛名田比売と結婚し多くの神々を産んで出雲系の神々の祖となったのです。
八重垣神社はその素盞鳴尊(スサノオノミコト)と稲田姫(イナダヒメ)が住まわれた地に建立されたと言われています。本殿にあった杉板の壁画は収蔵庫に保管されていますが、稲田姫以外の神像は落剥が激しく輪郭線がやっと覗える程度で稲田姫の画像のみが鮮やかに残って、初期の大和絵を思わせる美しいものでした。
寛平5年(893)8月出雲国庁を造営した時、巨勢金岡に描かせたと社伝には記されていますが杉板の年輪年代測定法によると13世紀に伐採されていたことが判明しています。
境内には椿の木が多く、根元が2本で幹が一本になっている夫婦椿と呼ばれて木もあり、紅と白の花をつけていました。
その稲田姫の壁画を今年の年賀状に選び、題字は歌会始のお題「岸」を刻しました。当初「絆」と思ったのですが例年通りお題の字「岸」とし、空海の書「金剛般若経」の中から岸の字を選びました。
今年、1月12日に「歌会始の儀」は開かれました
御製 津波来し時の岸辺は如何なりしと
見下ろす海は青く静まる
皇后さま 帰り来るを立ちて待てに季のなく
岸とふ文字を歳時記に見ず
高円宮妃久子さま
福寿草ゆきまだ残る斐伊川の
岸辺に咲けり陽だまりの中
昨年11月中旬、出雲路を旅してきました。斐伊川の河口ではコハクチョウとマガンが群れ、宍道湖では蜆とりの舟が漁をしていました。高円宮妃が詠まれた福寿草が咲いていた河口はどの辺だったのでしょうか。神話の郷は冬に入っていました。
来年のお題は「立」、幸せが多い年になるよう祈るのみです。
ツバキ(11 11 18)松江市佐草町八重垣神社 中段上:八重垣神社壁画 中段下:年賀状
【資料:古事記 新編日本古典文学全集 小学館】
サルルンカムイ・丹頂=タンチョウ [夢見る鳥たち]

タンチョウー塒ー(97 02 15)鶴居村雪理川
1952年(S27)、釧路地方は連日の猛吹雪となり大雪に見舞われました。それまで絶対に人里に近づかなかったタンチョウが餌を採れなり農家の庭先までやってきたのです。
阿寒の人たちは飢えた鶴を救おうと種用として保管してあったデントコーン(飼料用トウモロコシ)を与えたのです。人とタンチョウとの交流が始まりました。
タンチョウは明治末から大正にかけて絶滅したと思われていました。開発による生息地の減少、食用として捕獲などがその理由でした。
しかし、1923年(T12)釧路湿原で十数羽が発見され、保護の歴史が始まりました。しかし、タンチョウは人里離れた地で細々生き、容易に人には近づきません。その上、戦争に入って野鳥保護に時間を割く余裕もなくなったのです。戦争が終結しても食糧難の時代で野鳥保護には不幸な時間が過ぎていきました。
そして、1952年の大寒波がきたのです。この年33羽を確認しました。まさに、絶滅寸前でした。この給餌活動から冬季に飢えて死ぬタンチョウも減少し、電柱、電線などに当たって死ぬアクシデントも電柱の撤去、タンチョウサンクチャアリの設立などそれぞれの分野で保護活動を行うようになったのです。
1952年、タンチョウは天然記念物から「釧路のタンチョウ」を特別天然記念物に指定。
1967年(S42)に地域を定めず種として特別天然記念物となり、1993年(H5)、種の保存法により国内希少野生動植物に指定されました。2006年1月25日の一斉調査(日高、十勝、根室の150ポイント)によって1081羽を確認し、千羽鶴となったのです。
1952年の33羽から半世紀が過ぎていました。
しかし、新たな問題点がもち上が出てきました。千羽前後の時期から繁殖期に入っているのに数羽の群れがいることです。タンチョウは冬季は群れるのですが繁殖期はペアでテリトリーを持って繁殖します。
現状の限られた地域では新たな繁殖ペアが入り込むテリトリーの余裕がないことで、これからの保護活動の新たな課題となっています。
美しいサルルンカムイが安心して住める地になるにはまだ努力が必要なのです。

タンチョウーペア(04 06 21) 浜中町霧多布 中段:(99 02 27)鶴居村
万葉集:最後の歌=出雲大社大注連縄・ダルマギク [花のある情景]
出雲大社(11 11 18)
三年春正月一日、因幡国の庁にして、饗(アエ)を国郡の司等に賜ふ宴の歌一首
新しき年の初めの初春の 今日降る雪の いや重け吉事右の一首は、大伴宿禰家持作れり
この一首で万葉集全20巻4516首の幕を閉じます。その最終の歌は大伴家持が因幡国の国主として赴任先で迎えた天平宝字三年(759)の元旦の饗宴の席でした。
奇しくもこの年の元旦は立春とも重なった珍しい年でした。それ故でしょうか「新しき年の初めの初春の・・・」と重複した言葉を並べ、そして雪が降る年は豊作と考えられていたので今日の雪と吉兆を詠んだのでしょう。
或いは政治的に苦しい状況に置かれているため都への復帰を思い吉事を願っていることを中央政界にそれとなく知らせたのかも知れません。こんな意味にとるのは家持の人間性を解さない下衆の勘繰りでしょうか。家持は『いや重(シ)け吉事(ヨゴト)』と率直に考えていたとしましょう。
巻17から巻20までの4巻は大伴家持の歌日誌と言われ、家持の歌と彼の周辺、或いは関わりの歌が年次に従って収録されているのです。と言うことはこの歌が万葉集では一番新しい歌となります。
この年賀の宴の年、家持は42歳、この後家持が没する延暦四年(785)の27年間、家持の歌の記録はどこにも伝えられていません。
本当に家持は筆を折ったのでしょうか。政治に全精力を注いだのでしょうか。古歌の専門家は古今和歌集や新古今和歌集の詠み人知らずの中にあるのではと探し求めています。
あれほど精力的に詠んでいた歌を27年間一切詠まなくなったとは信じられないからです。その点についての文献すら存在しません。
家持は政治家としては当時の権力者藤原仲麻呂の反対側についていました。そんなことも重なり、この後も相模、上総、伊勢の国主を歴任し、また時には中央へ返咲き官位を上げて参議にもなっています。ところが東北の辺境の地で夷俘の一首長が叛旗をひるがえし多賀城が襲われます。桓武天皇は武門の出自であり、政治家としても優れている家持を陸奥按察使鎮守将軍に起用しました。
そして延暦四年(784),多賀城に赴きます。その翌年病魔におそわれ68歳で任地で亡くなるのです。
しかし、大伴家持はこれで幕を降ろせなかったのです。家持の死の二十日あまり後、大伴継人は長岡京の建設現場で藤原種継を殺害するのです。桓武天皇は激怒し大伴継人ら下手人一味を捕らえます。拷問の末、継人は故中納言大伴家持と謀ったと供述するのです。家持が相謀ったとされる筈はないのです。家持は陸奥多賀城にいて政務を行っていたのです。
しかし、既に病没していた家持も遡って除名の刑を受け庄園も含めて一切の私有財産を没収されます。
北山茂夫著『万葉の世紀』によればこの財産没収の時に家持が編纂した『万葉集』の元本が含まれていたらしいと推定しています。そしてその元本が官辺にとどめ置かれたことが元本の散逸をまぬかれ万葉集の伝世に有利に作用したと記しています。
2012年1月2日、この稿を書いて一段落して夜11時半過ぎに夜空を仰ぎに外へ出ました。冷え切った真っ黒な夜空に月齢8.4の半月が美しく輝いていました。体中から濁った空気が抜け出て頭がすっきりした瞬間でした。
【資料:万葉集とその世紀 北山茂夫著 新潮社・続日本記 直木孝次郎訳注 平凡社】
ダルマギク(11 11 18)出雲市宍道湖半斐伊川河口 中段:月齢8.4(12 01 02 23:37分)
立山と剣岳の氷河=ライチョウ [夢見る鳥たち]
よい年になるよう祈り・願い・夢見て迎えました。
平成24年元旦
ライチョウ(98 06 04)富山県立山室堂
日本では存在しないとされている氷河を観測したと昨年11月、富山県立山カルデラ砂防博物館はビッグニュースを発表しました。その要旨は立山連峰の主峰雄山の御前沢雪渓と剣岳の三ノ窓雪渓・小窓雪渓の3か所の氷塊を全地球測位システム(GPS)を使って観測したところ、10月の1か月で最大32㎝移動していることを確認したと言うものです。氷河の長さは700㍍~1200㍍の短いものですが今後、数年かけて観測を続け論文にして日本雪氷学会に提出し氷河の認定を受けることになります。
氷河について広辞苑では「高山の雪線以上のところで凝固した万年雪が上層の積雪の圧力の増加につれて氷塊となり、低地に向かって流れ下るもの。流速は山岳氷河では年に50~400m、海に流れ出る氷河では年に1000mを超えるものがある。」と記されています。
認定されれば例えば御前沢雪渓は御前沢氷河と呼ぶことになるのでしょう。
その氷河のある地域は氷河時代の生き残りと言われる「ライチョウ」の日本で有数の密度の高い生息地となっています。
日本のライチョウは北アルプスや南アルプスの標高が2400㍍以上のハイマツ地帯に限られて生息しています。
かって氷河が北半球を覆っていた時に日本に棲むライチョウはアムールやカムチャッカからサハリンを通って南下してきたと考えられています。中国東北部や朝鮮半島には日本と同種のライチョウはいません。その後別種のエゾライチョウ(サハリン・北海道に生息)が南下し、北海道では日本の種を駆逐してしまったと思われています。その後の間氷期にエゾライチョウは津軽海峡を渡れなくなったのでしょう。
明治16年(1883),英国人ブレーキストンが「日本の鳥類の分布は津軽海峡に境界線がある。」と発表したブレーキストンラインです。津軽海峡によって日本のライチョウが生き残ったと推定できます。その後さらに温暖化がすすみライチョウは寒冷な気候を好むため標高の高い山に追われたのです。
ライチョウは氷河期の遺産であり確立の低い幾つかの条件の中をくぐり抜けかろうじて生き残ったのです。日本での推定生息数は約3000羽以下、近年温暖化による影響か、登山者の増加による環境悪化のためか、ライチョウの生息地にまでキツネ、ニホンザル・ドブネズミが進出し抱卵中の雌や雛たちが捕食され減少しています。
近い将来、多くのライチョウが棲む地域となって「三ノ窓氷河に遊ぶライチョウ」、「御前沢氷河を飛ぶライチョウ」とのタイトルの写真が発表されることを夢見ています。
ライチョウ♀(98 06 05)富山県立山室堂
防人の歌=ハシビロカモ、オナガガモ、スズカモ、コガモ [夢見る鳥たち]
ハシビロカモ♂♀(11 03 29)成田市坂田ヶ池
万葉集20巻に防人の歌が記されています。
詞書に「天平勝宝七歳(755)乙未の二月に交替して筑紫に遣はされる防人たちの歌」とあります。
その歌の意は「水鳥が飛び立つ時のように、慌しく出発してしまったので父母と話も出来なかった事が今となっては悔しくてならない」 駿河国有度部郡の兵士(上丁)が役人の命令に急がされて出発したことは容易に想像できます。東国から遠い任地、九州に長期間も赴くのは永遠の別れの覚悟も必要でした。
兵部少輔だった大伴家持は彼らやその家族に歌を提出してもらい、万葉集に84首を採録しました。家持はその選にあたって素朴で新鮮な言葉で家族と離別する悲しみを歌ったものが多いことに我が事のように涙した歌を長歌を含めて数首を万葉集に残しています。
鶏が鳴く 東男の 妻別れ 悲しくありけむ 年の緒長み 兵部使少輔 大伴宿禰家持
歌の意は「東国男子の 妻との別れは さぞ悲しかったろう 3年間の任期は長いので」
第二次世界大戦の時、時の為政者はこの万葉集の防人の歌を国威高揚のためのプロパガンダに使いました。
「今日よりは かえりみなくて 大君の 醜(シコ)の御盾と 出で立つわれは」
「海ゆかば 水く屍 山ゆかば 草むす屍 大君の辺にこそ死なめ 還りみはせじ」
多くの若者がこの歌に送られ遠い戦地へ赴き還らざる人となってしまいました。万葉の時代の防人と何ら変わることがありませんでした。
しかし、万葉集に防人の歌が収録されたことによって、万葉集は和歌集のジャンルを超えて歴史の上からも、国文学の上でも重要な歌集となったのです。
【資料:万葉集 新編古典文学全集 小学館】
コガモ♂(11 12 10)成田市坂田ヶ池 2段目オナガガモ 台東区不忍池 3段目スズガモ 富津市
倖の山里=コウノトリ [夢見る鳥たち]
コウノトリ(11 11 20)兵庫県豊岡市
今年11月中旬、私たちと息子の3人で兵庫県豊岡市の「こうのとりの里」を訪ねてきました。山里は美しく紅葉しコウノトリが最後まで住み続けた理由が分かったような気がしました。
1960年(S35)、兵庫県北部豊岡盆地の出石川で撮影された12羽のコウノトリと川の中で牛を追う農家の女性の写真はこの地の人たちがコウノトリと優しく関わりあって暮らしていた但馬の風景でした。
しかし、この写真が撮られてから11年後の‘71年(S46)5月25日、国内繁殖の野生種が保護のため捕獲され日本の空から国内繁殖野生種は消えてしまいました。
そして、飼育していた最後のコウノトリも‘86年(S61)2月28日死亡し国内繁殖のコウノトリは完全に絶滅したのです。
大きな原因は明治以降の乱獲、減少の中で追い討ちをかけるように戦争中の食料不足による捕獲、戦後の開発による営巣場所の減少と環境悪化、農業技術の変化による農薬の大量使用などが考えらてれます。(トキと同様な原因)
コウノトリの人工飼育は既に絶滅前の‘65年(S40)から試みられていましたが中々成功せず、’88年(S63)多摩動物園で中国産のペアが国内では始めて成功、豊岡では’85年7月、ソ連(現ロシア)から贈られた幼鳥6羽の中から‘89年、一番が繁殖に成功し以後毎年繁殖を続くようになりました。そして、‘02年(H14)5月、豊岡のコウノトリは100羽を達成し、次の放鳥計画に移るのです。
‘05年(H17)9月24日、豊岡市「こうのとりの里公園」は秋篠宮様ご夫妻をお迎えしてコウノトリ5羽を豊岡の空に放ちました。絶滅から34年目の羽ばたきでした。
翌年の歌会初のお題は「笑み」でした。秋篠宮様ご夫妻の詠まれた歌は
人びとが笑みを湛へて見送りしこふのとり今空に羽ばたく 秋篠宮殿下
飛びたちて大空にまふこふのとり
仰ぎてをれば笑み栄えくる 同 妃殿下
放鳥の翌年産卵はあったものの孵化はしませんでした。翌07年一のペアが産卵→孵化、7月に無事巣立ったのです。‘61年(S36)福井県小浜市で野生最後の巣立ちから46年がたっていました。長い歳月と多くの人たちの努力がやっと叶ったのです。今年を含めて豊岡で繁殖し放鳥されたコウノトリは27羽になり、今年誕生した2世9羽を含めて36羽の2世が飛んでいます。衰弱して死んだ固体もあり11月現在で46羽が青森から長崎に飛んでいます。東日本震災の地、宮城県丸森町へも4月に訪れています。
嬉しいことに大陸から飛んできたのでしょう野生種の♂が放鳥の♀とペアを組んで繁殖もしています。
野鳥が運んだのでしょう野生種の小さな柿が里山を美しく彩っていました。半世紀前に撮影された出石川の写真と同様な風景をこの里でみるのももう直ぐと確信し、私たちは倖の里を離れました。
勿論、帰りは特急「こうのとり20号」です。
コウノトリ(11 11 20)豊岡市
飛翔する鳥形埴輪=イヌワシ [夢見る鳥たち]
イヌワシ(09 10 14)滋賀県米原市伊吹山
平成12年10月、橿原考古学研究所は橿原市四条遺跡(6世紀前半)の円墳から木製鳥形埴輪がほぼ完全な形で出土したことを発表しました。鳥形木製品はコウヤマキが使われており、当時の木棺の材料がコウヤマキを使用していたことから最高の材料を使用し、畏敬の念を持って作られたのでしょう。その鳥形は胴長90cm、翼長100cmの大型で翼は胴部に長方形の穴を開け差し込んで墳墓に飾られていたとされ、日本における飛翔姿の鳥の彫刻でした。
翼を水平に広げ強い上昇気流の乗って羽ばたくこともせず、悠然と自由に空を飛んでいる姿です。「古墳の被葬者の魂をあの世へと運ぶ様子を表現したのだろう」と解説しています。
復元イメージ図では30メートルの円墳をめぐる周囲の溝から高さ2m前後の竿の上に据付けられていたようです。
万葉集巻12-3100に
思わぬを 思ふと言はば 真鳥住む 雲梯(ウナデ)の杜の 神し知らさむその意は「思ってもいないのに口先だけで思っていると言うなら恐ろしい鷲の住む雲梯の森の神様の罰を受けることになるだろう」 真鳥は鷲の古語(鳥の中の鳥=鷲)
更にもう一首巻7-1344
真鳥住む 雲梯の杜の 菅の根を 衣にかき付け 着せむ児もがも雲梯の社は前記の四条遺跡から1キロぐらいの橿原市雲梯町の曽我川近くにある事代主神を祀った川俣神社と思われます。当時の都、藤原京(694~710)に近く、ほぼ都の中心の平野にある神社です。その杜に鷲が棲みついたのでしょうか。万葉の時代は四条遺跡の古墳の作成時から200年ぐらい後の時代となります。墳墓と雲梯の社との関連があるとは思われませんが万葉集に2首も残されていることは歌の枕詞だったのかも知れません。しかし、枕詞だったにしてもこの地が鷲となんらかの関連があったような感じがするのです。
中島みゆきさんの歌に「この空を飛べたら」という素晴らしい曲があります。
作詞・作曲:中島みゆき
この空を飛ぼうなんて 哀しい話を いつまで考えているのさあの空が 突然戻ったらなんて いつまで考えているのさ
暗い土の上に 叩きつけられても こりもせずに 空を見ている
凍るような声で 別れを言われても こりもせずに 信じる 信じる
あゝ人は昔昔 鳥だったのかも知れないね
こんなにも こんなにも 空が恋しい
木製鳥形埴輪(00 11 01)朝日新聞
シベリアの鷹(香月泰男)=オオタカ [夢見る鳥たち]
オオタカ(09 06 02)渋谷区明治神宮
満州からシベリアの4年間について『人は、苛烈な虜囚生活を、辛かったろうと、云ってくれる。私は、言葉少なに、そうだと答えてはいるが、決して、そんな生やさしい言葉では云いつくせない苛酷な体験で、ひしひしと、身にせまる飢餓と、恐怖が、極限のところまで来ている、4年の体験だった。』
帰還した年の10月〈雨(牛)〉、翌49年《埋葬》《水浴》を制作、後に彼の代表作ともなる「シベリアシリーズ」に雨・埋葬が収録されました。シベリアシリーズは彼の終生のモチーフとなるのです。 しかし、このシリーズも苦闘の連続でした。雨、埋葬を制作して10年近くシベリアシリーズは描けませんでした。それは多くの戦友を葬ったシベリアの凍土や大気を描写しきれていなかったからと思われます。1956年、〈左官〉で復活しました。自分の家の塀の煉瓦を積んでいる左官の姿を見てシベリアで強制労働に従事して煉瓦を積んだことが重なって新たなマチエールを発見したのです。シベリアの凍土の色や大気の色を追求した結果、方解末を混ぜた黄土色に木炭の粉を使って沈んだ深い黒を重ね、色彩を抑えたモノクロームの世界でした。それは見ている人に
『ある日、部隊に一羽の隼が迷い込んだ。子供の隼は体の具合が悪いと見えて飛べなかったので飼うことにした。炊事場の残り物をエサに、足に紐をつけて飛べないようにしておいた。それが、ある朝行って見ると、隼は見事に紐をたち切って逃げていた。自分の力で紐をくいちぎったて逃げた隼が羨ましく、飛ぶ羽をもたぬ自分が悲しかった。私たちを縛っている紐はそんなにたやすく切れるものではなかったのだ。隼の生命力と飛翔力をより強く表現するため、隼を鷹の姿にした。』1958年 《鷹》 (シベリアシリーズ) 山口県立美術館
1974年3月8日、心筋梗塞のため死去、享年62歳。亡くなったときイーゼルには《渚(ナホトカ)》が架かっていました。
そのメモには『この塩辛い水につながる向う岸に日本があるのかと舌でたしかめた。日本の土を踏むことなくシベリアの土になった人たちの顔、顔を描いた』
最後まで筆を加えていたのでしょう。57点目のシベリアシリーズでした。
同年11月、遺族によりシベリアシリーズ45点は山口県に寄贈され、山口県立美術館に収蔵されています。

オオタカ(幼鳥)(99 12 25)習志野市谷津干潟
【資料:香月泰男画集〈生命の賛歌〉 小学館 ・ 香月泰男〈私の地球〉 別冊太陽 平凡社】
東日本震災後の雁風呂=ニシキギ・キバラヘリカメムシ [樹木の物語]
ニシキギ(11 11 12)船橋市坪井町
《謡曲《錦木》 「陸奥の果まで修行の旅に出た僧が奥州狭布の里に着くと錦木と細布を売る男女に出会います。その僧からいわれを尋ねられて二人はこの地では男が思う女の門口に夜ごとに錦木を立て、その錦木を女が家に取り入れれば恋が叶う風習があると語ります。
そして三年間、女の家に通い続け千束の錦木を立てたが思いを遂げられず亡くなった男を残った数々の錦木とともに葬った錦塚に僧を案内します。秋の寒々とした夕暮れ、梟が鳴き、狐が棲む寂しい錦塚に案内した男女は錦塚の中に消えてしまいます。僧は錦塚に葬られ、怨霊が現れたものと考えて供養します。」
秋の東北地方に伝わる悲恋の物語を赤く色づいた錦木に絡ませ、恋しい女性のもとに三年も毎夜通い、叶わず夜明けとともに去る男の伝説を世阿弥は謡曲にしました。
『雁風呂にうちくべられし染め木かな 大江丸』
雁風呂の木片は海を渡って来る時に雁が咥えてくるのですが染め木(錦木)の木片は越冬地に散った雁が咥えたものです。
陸奥には錦塚があちこちにありました。大江丸は雁が残した木片の中に錦塚から咥えてきた染め木もあったのではと詠んだのです。錦木を持って通っても親の反対で添い遂げることが出来ずに悲恋のうちに死を選んだ恋人たちもあったでしょう。後に哀れに思った村人が夫婦として錦木とともに葬り塚を作って供養しました。
大江丸は陸奥の優しい言い伝え「雁風呂」と「錦木」を組み合わせ雁の悲しみと哀れな恋人たちを陸奥の奥行きのある秋の情景としました。
3:11 東日本震災以後の雁風呂です。「櫂未知子:金曜俳句」投句より
雁風呂に 懐かしき人 逝きし人
雁供養 どんな言葉も むなしくて
被災の地に永く厳しい冬がやってきます。優しく暖かな雁風呂に入って懐かしき人、逝きし人を偲んでいただきたいと願うのみです。
キバラヘリカメムシ(09 09 27)左:成虫・右:幼虫 ニシキギの葉が食草
【資料:新編古典文学全集 謡曲集 小学館/ 日本の名随筆:俳句 金子兜太編 作品社】







